《お姉さんによる記録:sister》
=お姉さん:竹下珠路さんによる、了子さんに関する記録=
古川了子(のりこ)について
失踪当時の住所
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千葉県市原市菊間
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生年月日
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1955年(昭和30年)1月1日
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失踪年月
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1973年(昭和48年)7月7日
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当時の特徴
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身長157cm、両頬えくぼ、下前歯が少し内向き左眉に裂傷跡あり、
左利きだが左右同等に文字も書けるし、針も使える。
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プレス発表より
以下は拉致被害者を救う全国協議会
事務局長荒木和博氏(姉:竹下珠路同席)による2002年12月6日 韓国のソウルロイヤルホテルにおけるプレス発表資料より転写
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本日10時より姉である竹下珠路(たまじ)さんがソウル市内で安明進氏と面会。
安氏は5年前にすでに古川さんの写真を見ており、自分が朝鮮労働党作戦部傘下の915病院(工作員などの病院および麻薬や毒物の製造、研究などを行う。)で見た女性に似ていると言っていた(著書『北朝鮮拉致工作員』徳間書店刊でも言及)今回竹下さんと面会して「絶対とはいえないが極めて似ている」と語った。これまで安氏の目撃証言の信頼性および古川さんの失踪の不自然さから考え、
救う会全国協議会としては田中実さんらと同様この事件を拉致と判断して差し支えないと認識する。
この事件の極めて重要なポイントはこれまで私たちが考えていた公式が覆ったことにある。拉致は1976年 金正日の指示によって起きたのではなく、北朝鮮という異常な体制にとって当然のことであり、金正日指示によって行われた集中的な拉致は工作員日本人化という特定目的の拉致だったということである。
すなわち拉致はそれ以前から行われており、最近まで続いていた可能性もあるということだ。しかも場所は千葉県であり、北朝鮮の工作活動の根の深さと広さを実感させられる事件である。
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失踪時の状況
古川了子は1973年3月千葉市内の高校卒業後、市原市の三井造船千葉造船所に勤めていたが、7月7日土曜日は会社休みだったので、昼ころ美容院に行って午後から千葉へ浴衣を買いに行く事を予定していた。
美容院の予約は前日(6日)の夜にしており、買物は「自分のお金で浴衣を買いたいから、一緒に見て欲しい」と母親に頼んでいて、「7日の午後なら花市場(千葉市内)行くからその時しましょう」と話し合っていた。
7日当日、母親は家から徒歩20分ほどのところで自分の経営していた花店に朝から仕事にでかけて、了子と午後京成千葉駅(現在の千葉中央駅)で2:30〜3:00ころ会うつもりで居た。
しかし了子から昼前に美容院に電話があり「今日の予約は用事が出来たので行かれなくなった。それから自分の母親に浴衣を買いに行けなくなったと伝えてください」と言った。
当該の美容師は家にも何回か遊びに来た親しい人で、了子の母親にはすぐその旨を伝えてくれた。 そして「いつもと変わらない明るい声でした」と証言している。電話の後ろが騒がしかったので「今どこ?」と聞いたところ「千葉駅」と答えたという。
伝言を聞いた母親は、友達にでも会う事になったのだろうとあまり気にもしなかったが、それから一切なんの音沙汰もなくなった。
それまで姉の家(千葉の珠路か東京の姉)に泊まるようなこともあったが、無断外泊するようなことは一度もなく、夜になっても帰ってこなかったので家族は大変心配した。
8日は友人などあちこち聞いて回り、本人からの連絡待ちをしたが一切消息がつかめないまま、9日になり会社の上司とも相談して、当時の市原警察署菊間駐在所へ捜索願を提出。
失踪前日にもらった始めてのボーナスは袋に現金が入ったまま残っており、預金通帳と印鑑も置いたままで、持って出たのは財布とハンカチ程度しか入らない小さな白い布製ポーチひとつだった。(その後もCDから預金が引き出された事はない)
その後母は、写真入りのポスターを貼ったり、占いの当たる先生がいるといわれては何人も訪問し、テレビの「モーニングショーの蒸発コーナー」にも出演して呼びかけ、
新聞の尋ね人欄にも写真も載せて呼び掛けをし、中学・高校時代のクラスメートや部活仲間に情報依頼の葉書を出したりしましたが、どれも了子に結びつく反応は何一つありませんでした。
北朝鮮との結びつき
1997年(平成9年)3月27日、フジテレビで「元北朝鮮工作員」が放映され(このころ横田めぐみさんの情報が確実視されたと思う)、母朗子がこの番組を見ていて何かピンと来るものがあったのか、すぐに連絡先のメモを取り、「私の娘ももしかしたら・・」と手紙に写真を添えて番組のプロデューサーに送ったそうです。
このときテレビを見ていたのは母だけで、即行動を起こしたのも「母の勘」というしかありません。後にこの事が進展開に結びつくきっかけとなったのです。
そのプロデューサー信友さんその年の秋、写真を持って元北朝鮮工作員(安明進さん)に見せたところ、「とてもよく似た人を平壌の病院で見た」と言ってくれたそうです。(1998年発行安明進著
『北朝鮮工作員』徳間書店に詳細記述)
このとき以来、私たち家族の了子探しの焦点は北朝鮮に絞られました。しかし事件当時の所轄署であった市原警察署に行っても「拉致問題は日本海側だけですから、太平洋岸の特に東京湾ではありえないですよ」「似たような事件があったかどうかは、大分前の話ですから記録もないですね」と言われ、「一応、家出人捜索願いを出しますか?」「身元不明死者写真便覧を見ますか?」という対応でした。(1998年、2000年、2002年捜索願更新)
その後、信友プロデューサーに更に写真の追加を渡し、「安さんにお目にかかれるなら何処でも行きたい」旨をお伝えして機会を待ちました。
当時「救う会」にすぐに飛び込めなかったのは、「太平洋側」ということと、「2枚目の写真の確認を待つ」こと、さらに主人の母のお世話も重なったため、私の身が超多忙になったこともありました。
そして2002年9月、5人の皆様の帰国を見て即市原警察署にも行きましたが、前進出来る回答も得られず、関係各位の御協力で12月5〜6日荒木和博さんと共に韓国に行き、安明進氏とお会いしました。
そして安氏から、「どの写真よりもお姉さんの顔が私の見た人と極めて似ている。顔を少し細くすれば・・」「本人がここにいないので絶対とは言えないが、私が915病院であった女性は古川了子さんである可能性が非常に高い」と言ってくださいました。
その後の動き
ソウルにおける即日記者会見から後、拉致の疑いを払拭できない「特定失踪者」の全国的な広がりを見るに当たり、「太平洋側」「関東地方」「千葉県」でも幾人もの人々が申し出ておられます。
私ども関しては12月19日に千葉県警察本部の警備部外事課を訪問し、「捜査要請書」を手渡してお願いし、その後県警、市原市警とで捜査を進めてくれています。
また、明けて1月には拉致の問題に関して司法関係者からの支援もあり、弁護士の方々も古川了子のケースについても確認を始めてくださいました。
さらに了子の高校時代の同窓生も有志の方々が自発的にお集まりいただき、情報の収集及び組織化を申し出ていただきました。
私どもでは、母が平成9年2月に市原市の家をたたんで千葉市の私共宅に来た時、かなりの遺留品は処分してしまったので、アルバムや失踪前日まで通勤に持っていたバッグなど、少ない資料の中からでき得る限りの調査を独自にも進めてきました。しかし、横田さん達のケースにしても同じように、「証拠」や「遺留品」のないのがこの事件の特徴のようで、警察や弁護士の方々の捜査も現在苦労しておられるのが現状のようです。
了子はいま
失踪してからこの方30年、母を始めとして私たち家族は一度も了子の事を忘れた日はありません。しかし幼い頃からの了子を知る家族としては、口数は少ないがしっかりものでスポーツが得意な、手先が器用で頑張り屋さんの、人に対して心優しい了子は、どんな境遇にあろうとも必ず自分を見失わずに精一杯生きているであろうと確信しています。
了子がどんな状況で日本を離れたのか推測すら出来ませんが、自分の意思で連絡出来ない状況には変わりなく、「安全な日本」を信じていた私たちの国家主権を冒涜する行為と、人権を無視した卑劣な行動の被害者になっている事は殆ど事実と思われます。
母も今年8月で87歳になり、足腰の衰えも見せていますが気力はまだまだ十分に確かですので、一日も早く了子の消息がつかめ、母と了子の会える日が来る事を願っています。
おわりに
了子からの連絡を30年間待ち続けましたが、昨秋から「待っているだけではダメだ」と思い、自分達に何が出来るか、出来るところから行動を起こそうと決意を新たにしています。
いま国をあげて北朝鮮の拉致の問題を解決せねば、またまた数十年があっという間に過ぎ去ってしまう事は火を見るよりも明らかです。北朝鮮は「拉致はもういない」と言っていますが、しかしそのような事はもはや信じられません。昨年の春まで「ない」と言ってきた事が、9月に突然「あった」に変わったのですから。
何としてもこの機を逃さず、拉致問題の全面解決を図れるよう、皆様のお力を借りて政府に訴えていきたいと思っています。
何卒御協力のほど宜しくお願い申し上げます。
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